第20回 「ガード下の靴みがき」だった君へ

  
このエッセイは2010年11月14日に書きました


  昭和30年ですから西暦でいうと1955年です。半世紀以上も昔のことになります。大都会の乗降客の多い駅のガード下で靴磨きをする少年、当時は君たちのことをシューシャインボーイと呼んでいましたが、をしていた頃、君と同い年ごろの私は九州の田舎町で、両親と二人の弟たちと「風の冷たさ」や「ひもじさ」とは無縁の生活を送っていました。無論今のように豊かな生活ではありませんでしたけどね。

  そうして自分が70歳近くなって、ときどき君のことを思い出すのです。今、君はどうしてるかなってね。

  あの頃君はお父さんを南方戦線で亡くし、お母さんは病気で寝たきりでしたね。そんな生活を支えるために、夜遅くまでガード下で靴磨きの仕事をしていたわけです。

  もはや戦後ではないといった文字が国の白書に書かれましたが、日本はまだまだ貧しく都会には戦災孤児と呼ばれる、大勢の子どもたちが溢れていました。

  君は孤児ではありませんでしたが、病気のおかあさんに代わって夜遅くまで働いていました。現在では小学生を就労させるなど考えられませんけど。

  なかなかお客がつかない君のポケットには一円札ばかり、これでは売り上げが足らず、町にはネオンが輝きだしても家に帰られない日々が続き、夕陽を眺めながら溜息ばかりでした。

  そんな毎日で君が一番つらかったのは、こんな生活がいつまで続くのだろうという不安、せめてお母さんの病気が治り一緒に暮らす、そんなささやかな夢すら遠かったことだったのです。

  だから自分よりはるかに年下の花売りの少女が泣きながら歩く姿を見つけると、自分のそれと重なって、お月さんにさえ愚痴りたくなってしまうのでした。

  「ねえお月さん!この世に幸福ってあるのかい?ある訳ないだろう。あるんだったら、なんでおいらの方に来てくれないんだ!」

  貧しいから、冷たい風が身を責め、お腹はひもじさで鳴いていても我慢する。だけど、元気になったお母さんと、仏壇のお父さんと一緒に温かいご飯を食べる、そんな夢すら持てないなんて、あまりにも辛いことだったよ。そんな、貴方の嘆きが聞こえてくるのでした。

  あれから50年以上の歳月が過ぎ、当時病気だったお母さんの歳を倍以上に超えた今。

  いかがお過ごしですか。お元気ですか。

  きっと、苦労を重ねがんばった分、人一倍の幸福に囲まれての老後をお暮らしのことと信じています。

  「ガード下の靴みがき」の歌は「なんでこの世の幸福は、みんなそっぽを向くんだろ」で終わっていますが、次の4番では、一生懸命に生き、夢を追い続け、他人を思い遣った貴方の生きざまに「この世の幸せ」がほほ笑んだという歌詞になったはずです。そうでしょう!ね!ご同輩。   
  これから寒さも本番です。どうぞお体ご自愛ください。