第24回 ローマの休日のヘボンさん
==この欄の作品は1998年ころから2002年の間に書かれたものです==
ヘボン式ローマ字を小学校で習いましたね。ヘボンが人の名前であり、そのヘボン先生が考案したローマ字綴りといえば「ふ」をHUでなくFUと表したり「ち」をTIでなくCHIと英語風に表現するつづり方を日本に広めた人物の名前だということは聞いたことがありますね。
ヘボンさんはアメリカの宣教師であり医師、安政六年来日して横浜に病院を開くかたわら、「和英語林集成」という日本で始めての和英辞典を刊行しました。明治になってヘボン先生のこのつづり方をヘボン式と呼ぶようになりました。先生の名は英語ではJAMES.C.HEPBURNと書きます。
ヘボンさんはあのローマの休日のオードリー・ヘップバーン(AUDRY HEPBURN)と同じスペルだったのです。なんと、オードリー・ヘップバーンさんは、オードリー・ヘボンさんだった。
なぜヘップバーンがヘボンなのか。明治と言う時代の人々はじめて接する英語に、今以上に原音、つまり外人の発する音声に正確に反応していたのだと思います。昔読んだ本に人力車の車夫が「赤」という単語を「ウレ」と発音していたと書いてありました。
まさに耳から入り込んだ「RED」だったようです。
ヘボン先生がMY NAME IS Dr JAMES HEPBURN.と名乗った時、彼らの耳に聞こえたのは、ヘップバーンではなくヘボンであった相違ありません。
ヘボンさんは日本名を「平文」と書いたとものの本にあります
ちなみに子供達の前で英国人にHEPBURNを発音してもらって、発音を繰り返させたら、子供達はヘボンに近い言葉が返ってくるのではないか。一度試してみたいものです。
私の母が存命の頃、いとこがアメリカ人と結婚して、生れた子供に「DONALD」と名付けたのだが、母の電話帳には「DONALD」の電話番号の上に片仮名で「ダナー」と書いていました。思うに母の耳にいとこの子どもの名前は「ダナー」と聞こえていたのでしょう。
ハンバーガーショップの「マクドナルド」は藤田田氏があえて日本読みにしたそうですが、アメリカでは「マックダナー」の発音になるのでしょう。だとすると母は自分の耳で聞いた音声を片仮名で書き写したものと思われます。
それはともかく、私にとって「ローマの休日」や「麗しのサブリナ」のオードリーが「ヘボン」でははなはだ具合が悪いのです。私の頭の中に「ヘボン先生」は髭を生やしたおじいちゃんのイメージが出来上がっているせいでしょう。
第23回 東芝日曜劇場
==この欄の作品は1998年ころから2002年の間に書かれたものです==
多分、驚くべき事なのだろう。我が家の電器製品が、全て東芝製だった時代があった。昭和三十年代の半ば、私が高校一年生の頃、今から四十年ほど前の頃である。なぜかマツダと印字された白熱電球に始まり、十四EK型のテレビ、カナリヤかコスモスと呼ばれた真空管型ラジオ、炊飯器、冷蔵庫、洗濯機など全部東芝製。
しかし、これにはちゃんとした理由がありました。表題にもあるように、私のうちのテレビの楽しみの一つに、毎週日曜日の東芝日曜劇場がありました。特に母は大のファンでありまして、今でも「テレビと母」について、という文章を書くとすれば、日曜日の午後九時のそれでありましょう。
いつ頃から始まって、終わったのかは知らないけれど「かみさんと私」シリーズの、体格的に似た者同士の京塚昌子と母とがダブって印象に残っています。当時私の住む佐賀にはテレビ局がなく、お隣の熊本から有明海を越えてきた熊本放送の電波を受信してのテレビ鑑賞でした。「あんなに楽しい番組を見せてくれる…」と中年ぶとりを無事完了した体を揺らしながら言ったものです。「それも、タダで見せてもろうて、東芝さんも物入りだろうけん、家で出来る事と言えば、東芝さんば買うてやるぐらいしかなかやんね」そうやって、又楽しい番組を作ってもらうのだ、と言ったものです。
「世の中、持ちつ持たれつ。お金もぐるぐる廻っとると…」
現代に通用する話ではないかもしれませんが、四十年前にはこんな感覚の視聴者がいた.というお話でした。
第22回 「降らずとも昭和も遠くなりにけり」
中村草田男の句に「降る雪や明治は遠くなりにけり」というのがあるが、表題は、先日テレビの終戦記念日特集の中で、若い女性に(十五歳くらいか)日本とアメリカと戦争をした事があるけど、知っているか?との質問に「えっ、アメリカと戦争、日本が…うそー」と答えている映像を見た時浮かんだ私の感想であった。
私が十五歳の頃の日露戦争は、五十二、三年前の歴史的出来事ではあったが、日露戦争は知っていた。戦争の善悪はともかく、戦争にいった経緯や終戦に至る苦労など知っていたし、周りにも生き残りと言うか、戦争体験者が何人もいた。我が家にも、祖父が二百三高地の攻撃に参加し、褒章として貰った金鵄勲章があって、時を経たわりには結構身近な戦争であった。
しかし、現在日本の原点である、昭和十六年十二月八日の日米開戦から昭和二十年八月十五日の敗戦までの太平洋戦争を知らない子供たちの存在、その恐ろしさは、なにも、戦争経験があるとか、空襲にあって逃げ廻ったといった、直接的な体験でなくとも、日本人として決して忘れてはならない歴史上の事実のはずである。
テレビの子と当時の私との時間差は、太平洋戦争と日露戦争との五十数年と言う事で同じだと思うのだけど、この差はあまりにも大きい。呆然、愕然といった言葉の中に沈んでしまいそうだ。
問題は学校教育なのか家庭教育なのか、それとも単純に非常識な女の子なのか。正しい歴史や常識を学ばずに、大人なになり、結婚して子供が生まれるという営みが繰り返されるなら、この日本は大変な事になる。否、世界がそれを許さないだろう。大半の子供達がそうでないことを祈るのみである。
第21回 小春日和
秋の晴れた、暖かい一日のことを小春日和と言いますね。陰暦十月のことですから、陽暦では十一月から十二月上旬にかけての頃。この時季は吹く風も冷たく寒い日が続いたりするのですが、まるで春を思わせるような陽気になることがあります。これを小春日和と呼びます。小春といっても俳句の季語は秋です。逆に「麦秋」(ばくしゅう・むぎあき)は初夏の季語です。
この日本の「小春日和」に似た天気を、アメリカやイギリスでは「インデアン・サマー」と呼びます。またドイツでは「老婦人の夏」ロシアでは単に「婦人の夏」と言うそうです。
ヨーロッパでは日本のように「春」ではなく、なぜ「夏」なのかについて「空の名前」(高橋健司文・写真・角川書店刊)という写真集の中に答えが書いてありました。
この本は、以前私と同じ職場で仕事をした、井村水面(みなも)さんが私の誕生祝に、書店で見つけてプレゼントしてくれたものです。この本は見るだけで心が休まる、いやし系の本で疲れたときに眺めると効き目のある本です。
つまりこうです。緯度の高い国の春はまだ寒くて、むしろ夏のほうが快適な季節だからだそうです。
この「空の名前」の中身ですが、雲、水、氷、光、風、季節と六章に分かれており、本の帯にはこう書かれていました。
「美しい風景は、大自然の中だけにあるのではない。見上げた空に、日の光の中に、そして降り注ぐ雨の中にもある。心の目を、ほんの少し、開いて見ればー。光と水が織りなす調べが、心をゆっくり満たすはずー」
(この文章は10年ほど前に書いたものです)
第20回 「ガード下の靴みがき」だった君へ
このエッセイは2010年11月14日に書きました
昭和30年ですから西暦でいうと1955年です。半世紀以上も昔のことになります。大都会の乗降客の多い駅のガード下で靴磨きをする少年、当時は君たちのことをシューシャインボーイと呼んでいましたが、をしていた頃、君と同い年ごろの私は九州の田舎町で、両親と二人の弟たちと「風の冷たさ」や「ひもじさ」とは無縁の生活を送っていました。無論今のように豊かな生活ではありませんでしたけどね。
そうして自分が70歳近くなって、ときどき君のことを思い出すのです。今、君はどうしてるかなってね。
あの頃君はお父さんを南方戦線で亡くし、お母さんは病気で寝たきりでしたね。そんな生活を支えるために、夜遅くまでガード下で靴磨きの仕事をしていたわけです。
もはや戦後ではないといった文字が国の白書に書かれましたが、日本はまだまだ貧しく都会には戦災孤児と呼ばれる、大勢の子どもたちが溢れていました。
君は孤児ではありませんでしたが、病気のおかあさんに代わって夜遅くまで働いていました。現在では小学生を就労させるなど考えられませんけど。
なかなかお客がつかない君のポケットには一円札ばかり、これでは売り上げが足らず、町にはネオンが輝きだしても家に帰られない日々が続き、夕陽を眺めながら溜息ばかりでした。
そんな毎日で君が一番つらかったのは、こんな生活がいつまで続くのだろうという不安、せめてお母さんの病気が治り一緒に暮らす、そんなささやかな夢すら遠かったことだったのです。
だから自分よりはるかに年下の花売りの少女が泣きながら歩く姿を見つけると、自分のそれと重なって、お月さんにさえ愚痴りたくなってしまうのでした。
「ねえお月さん!この世に幸福ってあるのかい?ある訳ないだろう。あるんだったら、なんでおいらの方に来てくれないんだ!」
貧しいから、冷たい風が身を責め、お腹はひもじさで鳴いていても我慢する。だけど、元気になったお母さんと、仏壇のお父さんと一緒に温かいご飯を食べる、そんな夢すら持てないなんて、あまりにも辛いことだったよ。そんな、貴方の嘆きが聞こえてくるのでした。
あれから50年以上の歳月が過ぎ、当時病気だったお母さんの歳を倍以上に超えた今。
いかがお過ごしですか。お元気ですか。
きっと、苦労を重ねがんばった分、人一倍の幸福に囲まれての老後をお暮らしのことと信じています。
「ガード下の靴みがき」の歌は「なんでこの世の幸福は、みんなそっぽを向くんだろ」で終わっていますが、次の4番では、一生懸命に生き、夢を追い続け、他人を思い遣った貴方の生きざまに「この世の幸せ」がほほ笑んだという歌詞になったはずです。そうでしょう!ね!ご同輩。
これから寒さも本番です。どうぞお体ご自愛ください。
第19話 腐れ縁
+++ここの作品は1998年ころから2002年の間に書かれたものです++
ミシシッピー河沿いの町、ニューオリンズはヒルトンホテルの酒場での出来事である。
私達はアメリカ研修旅行の一行八人であった。今からほぼ、三十年ほど昔のことである。
薄暗い酒場の私達の隣に、アメリカ人とおぼしき中年夫婦が坐っていた。男性は気の良いヤンキーで、私達にいろいろ話し掛けてくるのだが、傍に坐っている南部育ちの気の強そうな奥方は自分をほったらかしにして、黄色人種の日本人に話しかける、旦那のそうした態度が気に入らない様子が顔にでて、遠来の旅行者に微笑みもしない。
私たちはその旦那と片言の英語で「何処から来たか」「日本に行った事がある」など話していた。
やがてその男に「隣の奥方とはどうやって知り合ったか、気が強そうな人のようだが旨くいっているか」などかなり立ち入った話となった。
無論言葉が通じたかどうかは分からないが、アルコールの勢いで、その男との話は多いに盛り上がった。その間奥方は口も聞かない。
そうこうするうちに、その男性に団長の下本地さんが、あなた方は「腐れ縁」であると言った。無論日本語でだが、とたんに、くだんの奥方が「フアット・ミーン」と乗り出してきた。
多分自分の悪口でも言われたと思っての事だろうが、「クサレーン」を連発。腐れ縁を英語で言うには私達のレベルは低すぎる。
結論からいう、南部女性との相互理解は出来なかった。
それから数年が過ぎた。ソニーの盛田昭夫さんの書いた「NOと言える日本」の中で、腐れ縁の英語を発見した。
日米の間柄は「腐れ縁」であって、それは英語で言えば「Inescapable Interdependence 」となり、日本語訳で「逃れざる相互依存関係」と言う。
「逃れざる相互依存関係」とはいい得て妙ではないか。
素晴らしい!まったくもって、その通り!名訳と感心した次第である。
第18話 「評判悪いぜ」
サラリーマンにとって一番気になる言葉のひとつに「お前このごろ評判が悪いぜ」と言われることがあろう。そもそも人間、聖人でもなければ過ちや失敗のひとつやふたつあるもので、評判が悪いと言われてもそんな漠然とした言い方では、どの方面の何が評判が悪いのかさっぱり分からず、おもわずおたおたしてしまうのである。
私などはそう言われなくとも人に言えない失敗談が山ほどあって「俺にいい評判などあるものか」と開き直る以外に返す言葉がないというのが本音で、今でもはなはだ情けない状態が続いている。
この言葉が始末に悪いのは、悪い評判が何であるかを自分で探さなければならないところにある。
組織の中のサラリーマンにとって上司や部下の見る目はことのほか厳しく、遅刻が多いのか、私用電話の事か、取引先からの苦情があったのか、接待費の使い過ぎかな、女性だったら化粧か香水の匂いがきついのか、などの自分にとって悪いであろう評判の判断を瞬時にするとなると、普通の人は大変困るのである。そしてそのような言葉が発せられるのは、たいてい、廊下ですれ違いざまやエレベーターの中で言われる事が多い。
「ちょっと話があるので」と会議室や応接室呼ばれての話では決してない。
そしてもっとも困るのは上司や同僚部下にしても、結構自分を知る立場にあるかはたまた親しい人間から言われる事である。
気が弱い人なら「自分の評判の悪さ」をめぐって一日中仕事にならず、翌日は会社を休むなんてこともあるかもしれない。
しかし、心配無用。その言葉に出会った時の対応をご教授しておこう。こう答えなさい。
「そう言えば先日、先輩のこと、同じように言ってた人がいましたよ」
(ここに掲載する作品は1998年ころから2002年の間に書かれたものです)