第17話 空腹幻想
「蘭」と書いてアララギと読む。人の姓名である。その広告代理店に勤める蘭さんの話。
彼は「一位 優」というペンネームを持つ漫画家でもある。一位(いちい)とはあららぎの和名を持つ草木の名前であって、故にペンネームの意味は「優れたアララギ」となるが、この話は決して優れた話ではない。
彼の家庭は典型的な女系家族で、奥さんと三人のお嬢さんにジュンという雌犬に囲まれて生活している、いわばどこにもあるサラリーマンの世界の住人である。
ある日のこと、残業もなく久しぶりに早く家に帰ったものの、七時近くになればお腹がすいて、うちに着くや否や「おーい、飯!」と声をかけるが、うちには誰もいない、ジュンもいない。犬の散歩と買い物を兼ねての外出としばらく待つことにして、居間で新聞を読み始める。しかし、奥さんは帰ってこない。お腹は空くばかり。
台所へ立って冷蔵庫を開ける。お腹の足しになるものは何も入っていない。ドアを閉めようとすると、サラダボウルにキャベツのみじん切りが盛ってあるのがチラリと見えた。おまけに人参も入っている。よしこれにサラダドレッシングをかけて食べよう。
日ごろ野菜は嫌だ、ステーキ食べたい。などとわがまま言ってるくせに、腹が減ったお父さんの頭にはそんな余裕は、微塵もない。頭の中は「腹減った、なにか食べたい」だけがグルグル回っているだけだった。そんな状態だから、少しだけ食べて済ますつもりが、いつのまにか、ボウル一杯全部食べてしまった。お腹が空いていると、日ごろ嫌いなものでも結構美味い。
やがて、ジュンと一緒に奥方のご帰還である。
「あら今日は早かったわねー、急いで食事にするから・・・」と台所が忙しくなる。
しばらくして奥さんの大きな声がした。
「あなたー、冷蔵庫に入れておいた、お好み焼きの具どこにいったか知らなーい?」
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ここの作品は1998年ころから2002年の間に書かれたものです
第16話 野口健がんばれ
登山家。一九七三年米国ボストン生まれ。日本人の父とエジプト人の母、母方にはギリシャ、フランス、レバノンの血が流れる。十六歳でモンブランに登頂に成功して以降、七大陸最高峰世界最年少登頂記録を達成したのが、二十五歳の時であった。その彼が九十七年春に国際登山隊に参加したとき、ヨーロッパの登山隊から「日本は経済は一流だけど、マナーは三流だな」と投げつけられた言葉に目を開かされ、世界最高峰のエベレストが汚れているんだということを広く訴えることで、環境問題を考える契機になればと危険な山に足を運ぶようになった。清掃登山ではエベレストから二トン以上のゴミを降ろしたという。
そんな彼にお願いしたいのは、どうか長生きして欲しいと言うことだ。
二十七歳の彼が八十歳まで生きるなら、清掃登山や、シェルパ基金などの活動は五十年、半世紀の活動となるのだから。アルピニスト リオネル・テレーも冒険家植村克己もその愛する山で死んだ。だから私は野口健がエベレスト北壁からの清掃登山を始めるにあたって、無理をせず無事に帰ってきて欲しいのである。長生きすることで少しでも長く、彼のメッセージを世界に向けては発信し続けて欲しいのだ。
映画女優のオードリー・ヘップバーンが晩年をユニセフ活動に捧げたように、山のゴミを通して環境問題を問いかけて、その解決に情熱を傾けて欲しい。
半世紀の叫びは、必ず流れを変えることが出来る。私はこのような日本の若者に限りない声援を送りたい。
野口 健 オフィシャルシト http://www.noguchi-ken.com/
--ここの作品は1998年ころから2002年の間に書かれたものです--
第15話 草も生えぬ
佐賀の人の歩いた跡は草も生えぬ。
佐賀弁で正確に言うと「佐賀んもんの歩いた跡にゃ草も生えん」と発音する。佐賀人の気質を語るときに必ず出てくる言葉である。これを言う時、人は「働き者の佐賀人の姿と、吝嗇(りんしょく)な佐賀人気質」とを重ねてはいるが、どちらかと言えばケチのほうに重きを置いているようだ。
よその人が佐賀人気質をどうインップットしようが構わないが「草も生えぬ」とは、個人の佐賀に対する印象ではなく、永く語り継がれてきた文化の一面を表しているのではなかろうか。
ずうっとそんな考えが頭の中にあったのだが、この件について作家の司馬遼太郎氏はその著書「この国のかたち」三の(岬と山)の項(文藝春秋社刊)で、古代日本人は岬や山に神の存在を感じたが、その信仰は稲作文化の発展と同時進行したのではないか、また山のない平野では、として次のように書いている。
「二十世紀半ばまで、平野における稲作でもっともこまるのは、燃料と堆肥だった。たとえば、九州の佐賀平野ではまわりに山がないため、燃料の薪をとったり、堆肥にする草を得ることが大変だった。戦前、佐賀の農民は、道端のわずかな雑草でも、あれはわしのものだ、と所有を主張したと言う。草は、貴重だった。このため、「佐賀者の歩いたあとは草も生えぬ」と言われたりしたが、これは人格にかかわる言い草ではなく、山のない土地で耕作するくるしみを言いあらわしたものなのである。(P65)
司馬遼太郎は「佐賀人の歩いたあとは草も生えぬ」とは「人格にかかわる言い草ではなく、山のない平野で農耕をする苦しみを言った言葉だ」と解説されたのだが、私達佐賀人は永いあいだ、その言葉を貧乏からくる吝嗇(りんしょく)と認識させられていたのは事実である。
小学生のころ父に質問したことがあるが、答えは鍋島藩の貧困と佐賀人の清潔感が言わせた言葉だとしか返ってこなかった。
戦後の食糧難の時代、農家の努力で佐賀段階といわれ、大いに増産された佐賀産の米はそれなりの役割を果たしてきたが、他国の人々から「草も生えぬ」と馬鹿にされたりして米作りに励んだ農民の苦労は、県民への評価になり、私は最近まで、故なく肩身の狭い思いをしていたのだ。
いまや、米余りの時代を迎え、佐賀平野にも減反による休耕地があちこちに見られるようになった。家族みんなで、暖かいご飯に手を合わせ「頂きます」といって食事をした世代にとって価値観の相違に戸惑うばかりである。
=このシリーズは1998年から2003年頃に書かれたものです=
第14話 恥の文化
武士が借金をした。借用書には次のように書かれていた。
「恩借の金子御返済相怠り候節は衆人の前にてお笑いなされ候とも不苦候」(新渡戸稲造著「武士道」より)
金を借りた人間が返さなかったら衆人の前で「笑われ」ても苦しからず、という借用書を書いて証文にしたのだから凄い。
現代なら「笑われる」くらいで借金を返さず済むなら「いくらでも借りるぞ!」の世界であろうが、江戸時代の武士は「笑われる」くらいなら借金は返す。死んでも返す。といった心境を持ちつづけて生きていたのだ。
笑われることは武士にとっては死に値する重大な事であった。武士は嘲笑される「恥」を「死」と同等においていた。そこには武士達の築いてきた恥文化があったのである。だからこそ、この借用文で商人は武士に金を貸したのである。笑われるという恥を許容できないのが武士であって、まことの武士ならば、貸した金は必ず返してくれる。武士達の世界の恥文化を、その階級において最下位におかれた商人達が共有したのである。そのような生き方が武士「道」として認知されて、はじめて「約束を守らなかったら、どうぞお笑いください」あなた様から笑われた自分は、もうこの武士の世界では生きていけません。潔く腹かき切って死にましょう。の世界を出現させたのだ。
先の「葉隠」の項で述べた「武士道とは死ぬこととみつけたり」とはまさにここにあったのである。そしてこの武士道に代表される恥文化は明治になってからも、日本人の精神的支柱となって、つい最近まで生き続けていたのだが、気付いてみれば、あっという間に消えてしまった。最近とんと見かけない。見かけないどころかこの国では「恥」は大手を振って歩いている。借金は「恥」ではないらしい。日本国中に設置された「自動借金機」はテレビの派手なCMで借金を奨励している。多額の借金で自己破産者の数は増えつづけているし借金地獄は家庭を破壊し、挙句犯罪とも結びついていく。借りた金は返すのが当たり前である。しかし、借金が「恥」でないのだから、借りまくってしまう。貸すほうは企業間の競争もあって、なるべく貸そうとする。だからまた借りる。借りた方も何とかなるだろう、位いの軽い気持ちだから始末に悪い。そしてこの国ではそんな消費者金融と呼ばれる業界のトップが最高額納税者となっている。
借金ばかりではない。車内でのマナーの悪さは何も中高生ばかりではない。車運転中のタバコや空き缶の投げ捨ては後を絶たない。学級崩壊もマナーの悪さである。この原因の一つに家庭でのしつけがあるとおもう。一番駄目なのが子供の親達である。試みに悪戯している子供に注意してみるといい。「すみません、ご注意頂いてありがとうございます」と謝意を表す人は皆無であろう。子の親から鬼のような顔で睨みかえされるのが落ちである。
子供が駄目なのは親が駄目だと言うことである。私はそんな光景に出くわす時、いつも後ろにいる、親や連れ合いや家族の事を思い浮かべ絶望するのである。
第13話 蜜泥棒
三男新太郎が八歳の一九八七年四月十九日(日)の出来事。私たちは春日原に住んでいた。玄関前の街路樹の桜の花もとうに散って、若葉に近い季節だった。家には新太郎のおじいちゃんとおばあちゃんが一緒に住んでいて、家の玄関前には二人が丹精こめたつつじの花が満開だった。近所の人たちもその花の見事さ、美しさを愛でながら通り過ぎていった。事件はそんな二人の自慢を見事に傷つける形で発生した。
玄関前のつつじの花が見事に摘み取られたのだ。花びらがあたりに散乱しているのを見つけたのはおばあちゃんで、驚いて家の中に駆け込んできた。
「何であんな酷いことをしたのか。昔、玄関前に咲いたチューリップの花を、根元から土ごと全部盗まれたことがあったが、花びらだけを千切って撒き散らすなどの意味のない行為をされたことはない。
「犯人はいったい誰だ!」と泣き愁嘆の態である。その騒ぎの中、新太郎が二階から降りてきて言った。「うん、僕よ、僕が吸ったと・・・」
吸った?どういうことか?
その新太郎の供述によるとこうだ。
小学校の先輩が花びらのガクにあたる部分には、甘い蜜が詰まっていて、花びらを摘んでその後ろから啜ると甘い蜜が食べられる、と教えてくれたそうな。
そしてその格好の実験用の花が、玄関前の満開のつつじであって、誰に文句のつけられるものかと固く信じて、蜜を吸ったのだ。
「甘くて、おいしかった・・・」
人はなんの疑問や後ろめたさを持たないときは、堂々とした態度でいるものだ。新太郎がまさにその状態であった。
それに引き換え、私の母の哀れなることと言ったらない。
「なんも甘いものば買うてやっとらんわけじゃなかろうに・・・選りによってつつじの蜜ば吸わんでも・・・情けなかよ」私たち夫婦は首をすくめて、母の怒りの収まるのを待ったものだ。
よほど情けなかったのか、数年後に玄関を改装したときには、つつじの花は植えなかった。その時のつつじは「新太郎つつじ」と名づけて今も中庭に植えてあるが、花びらの付き具合が、ほかのつつじに比べて極端に悪いような気がしてならない。
第12話 初心
初心不可忘(しょしんわするべからず)とは世阿弥の観世座流の極意である。
室町時代の能楽者世阿弥の「花鏡・奥の段」は能の秘儀を伝えている。長い文章なので途中を省くが,
『しかれば、当流(観世座流)に、万能一徳の一句あり。初心不可忘
此句、三ヶ条の口伝在。
是非初心不可忘
時々初心不可忘
老後初心不可忘
此三、能々(よくよく)口伝可為(くでんすべし)。命には終りあり。能には果てあるべからず。その時分時分の一体一体を習いわたりて、又、老後の風体に似合事を習うは、老後の初心也。老後の初心なれば、前能(それまで積み重ねてきた能)を後心(ごしん・老いの芸に凝縮される)とす。五十有余よりは「せぬならでは手立てなし」と云えり。せぬならでは手立てなきほどの大事を、老後にせんこと、初心にてはなしや』
この秘伝を解説する才能を私は持たないが、三か条の内の、
是非とは「是非によらず、修行を始めた頃の初心の芸を忘れるな」
時々とは「修行の段階に応じてそれぞれの時期の初心を忘れるな」そして。
老後の初心とは、命には限りがあるが、能には限りがない。だから是非、時々学んだ芸を身につけたとしても、老後の姿にふさわしい芸があり、それを習うのが老境の初心の芸である。そこで老境の芸を初心と覚悟していれば、それまで身に付けた能が老境の芸に凝縮されてくる。
五十歳を過ぎて「しないといった、方針を無策と言えるほどの難行を、老後になってこそする」というのが初心でなくてなんであろうか。(谷沢栄一訳)
『さるほどに、一期初心を忘れずして過ぐれば、上がる位を入舞(いりまい・最後の舞)にして、終に能下がらず(退歩がない)。しかれば、能の奥を見せずして生涯を暮すを、当流の奥義,子孫庭訓の秘伝とす。此心底を伝うるを、初心重代相伝の芸安(げいあん・芸道上の工夫)とす。初心を忘るれば初心子孫に伝わるべからず。初心を忘れずして、初心を重代すべし』
ここには、千年を経て,二十一世紀の今日まで観世流の能が伝授され、社会に受け入れられ、子々孫々まで真髄を伝えてきた奥義が書かれている。
人たるもの、五十歳を過ぎればこの言葉をもう一度かみしめて、それなりの老後の自分を見つめ直してみたらいかがであろう。
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<ここの作品は1998年ころから2002年の間に書かれたものです>
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第11話 僕は普通
==ここの作品は1998年ころから2002年の間に書かれたものです==
信じられないかも知れないが、三男新太郎が小学校三年生の夏休みの作文に書いた本当の話である。こう書き出すと、愚息の自慢話を親馬鹿ぶりを発揮して書き出すのではないかとご心配の方もあろうが、その心配は全くもってご無用に願いたい。このエッセイ集に出てくる彼はまずもって自慢できる話は登場しない。
自分にも記憶があるが、小学三年の頃は、習いたての言葉を使いたくてしょうがない歳である。彼は「一足先に帰った」を使いたくてたまらなかったのだろうが、その作文に書いたのは「ひと目先にかえった」であった。
「新太郎!ちょっと来い」と叫んだのは間違いだったのだろうか。「この作文の中で『ひと目先にかえった』と書いてあるが、これはどういう意味かな」
「お父さん、それはね、ほかの人より少し先に帰ることよ。知らんとね」
「知るか馬鹿!」と怒ってはいけないのだ。怒りをぐっと抑えて、わなわなと振るえる右手を左手で押さえながら、引きつる頬を笑顔に変えて、「確か・・・それは『目』ではなく、『足』じゃなかったかな・・・『足』じゃ・・・」
「えっ、ひと目先に帰るじゃないの、『足』だったのか、そうかー『足』か、日本語って難しいね、お父さん」ときたもんだ。
あまり腹が立つので、親の恥でもあるが、彼の話をもうひとつ。
これは、小学四年のときのこと。テレビを見ていた新太郎が、つまらん事を口ばしった。内容は忘れたが、私は彼に「馬鹿やなー新太郎は!そんな事を言って・・・」と言葉尻を捕らえて咎めた。ところが、日頃は私にあまり反発しない彼が、この日は「お父さん、僕は馬鹿じゃないよ」と突っかかってきた。「馬鹿たい、そげん事言うのは、馬鹿じゃ」「馬鹿じゃない」「馬鹿たい」「馬鹿じゃない」
「新太郎、おまえが馬鹿じゃないなら、なんか?」
「お父さん!僕は『普通』よ」
* 現在、新太郎は30歳になり元気に独身生活を謳歌中。(2009年現在)