第12話 初心
初心不可忘(しょしんわするべからず)とは世阿弥の観世座流の極意である。
室町時代の能楽者世阿弥の「花鏡・奥の段」は能の秘儀を伝えている。長い文章なので途中を省くが,
『しかれば、当流(観世座流)に、万能一徳の一句あり。初心不可忘
此句、三ヶ条の口伝在。
是非初心不可忘
時々初心不可忘
老後初心不可忘
此三、能々(よくよく)口伝可為(くでんすべし)。命には終りあり。能には果てあるべからず。その時分時分の一体一体を習いわたりて、又、老後の風体に似合事を習うは、老後の初心也。老後の初心なれば、前能(それまで積み重ねてきた能)を後心(ごしん・老いの芸に凝縮される)とす。五十有余よりは「せぬならでは手立てなし」と云えり。せぬならでは手立てなきほどの大事を、老後にせんこと、初心にてはなしや』
この秘伝を解説する才能を私は持たないが、三か条の内の、
是非とは「是非によらず、修行を始めた頃の初心の芸を忘れるな」
時々とは「修行の段階に応じてそれぞれの時期の初心を忘れるな」そして。
老後の初心とは、命には限りがあるが、能には限りがない。だから是非、時々学んだ芸を身につけたとしても、老後の姿にふさわしい芸があり、それを習うのが老境の初心の芸である。そこで老境の芸を初心と覚悟していれば、それまで身に付けた能が老境の芸に凝縮されてくる。
五十歳を過ぎて「しないといった、方針を無策と言えるほどの難行を、老後になってこそする」というのが初心でなくてなんであろうか。(谷沢栄一訳)
『さるほどに、一期初心を忘れずして過ぐれば、上がる位を入舞(いりまい・最後の舞)にして、終に能下がらず(退歩がない)。しかれば、能の奥を見せずして生涯を暮すを、当流の奥義,子孫庭訓の秘伝とす。此心底を伝うるを、初心重代相伝の芸安(げいあん・芸道上の工夫)とす。初心を忘るれば初心子孫に伝わるべからず。初心を忘れずして、初心を重代すべし』
ここには、千年を経て,二十一世紀の今日まで観世流の能が伝授され、社会に受け入れられ、子々孫々まで真髄を伝えてきた奥義が書かれている。
人たるもの、五十歳を過ぎればこの言葉をもう一度かみしめて、それなりの老後の自分を見つめ直してみたらいかがであろう。
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<ここの作品は1998年ころから2002年の間に書かれたものです>
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