第10話 屁屎葛(へくそかずら)

  アカネ科の蔓性多年草で別名ヤイトバナ、サオトメバナともいう。別名で呼ばれる分にはいっこうに構わないが「屁屎葛」はひどい。この命名はこの花に対する人間の傲慢なる冒涜である。確かにこの花が放つ異臭というか悪臭は人間が好むものではなかろう。しかしである、花のヘタの部分には甘い蜜があろうものに。人は嫌っても虫たちは好きかもしれないではないか。

  平安時代の都人もこの臭いは好きになれなかったみたいで「くそ葛」と呼んでいた。さすがに「屁」までは付けなかった。いにしえ人の優雅な様が窺えようというものだ。とは言うものの「くそ葛」も相当ひどい。なんとかこの花を庇うつもりで書き出したのだがうまくいかない。庇うという字すら屁に見えてくるのは辛い。可哀想だがこの日本において、この花は嫌われものであった。
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  「屁屎葛」の別名が一転「早乙女花」または「五月女花」というのもなんだかわざとらしい。しぶしぶ付けたか、名付けた人の懺悔の気持ちがあるように見える。

  しかし、私はなぜかこの花名に同情し涙する。老いの表れであろうか、あるいは老いからくる「ひがみ」かもしれない。

  さて、そんなある初夏日のこと、博多区春町の桜の名所の青葉の下に、名も無き花が咲いていた。名も無いというものの、それは私が知らないだけで、花にしてみれば自分はこれこれの名前が付いていますよ、と主張したいところであろう。

  近所のお店に夕餉の食材を買いに出かけた帰りの車の中でのことである。「あの花の名前は何ぞ」と問えば、かの愚妻答えて曰く「私のところ(小倉)では『便所花』と呼んでいました」と答えたではないか。

  後にその花は「ベゴニア」と分かるのだが、「屁屎葛」に情を移している私としては、明るく紅色のあの花が「便所花」では、とても許せる名前ではなかった。しかし愚妻にしてみれば、問われたから答えたまでで、そばにいる連れあいが花の名を聞いて、そんなに興奮するとは思ってもいなかった。

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  「なに!便所花だと、もう一度言ってみろ!そんなはずはない!あれはどう見ても外来種だから違う名前があるはずだ!」愚妻は声を荒げる私を横目で睨んで口もきかない。冷静になれば口もきかない理由は分かるのだが、そのときは興奮状態である。

  あのように美しい花が、その臭いさえ違っていたら小さな白い花「乙女花」として人口に膾炙したであろうものを「屁屎葛」と、乙女でなくとも口にするさえ恥ずかしい呼称で存在しているそれと同じか同等の呼び名「便所花」と呼ばれ、その容姿を人々の前に晒すとは、なんと不憫なことか…。

  一人興奮し運転するハンドルを持つ手を震わすのであった。

第9話 野中大蔵君のこと

  ==このシリーズは1999年から2003年頃に書かれたものです==

  野中大蔵君は、佐賀県武雄の出身で、武雄高校を卒業して早稲田大学から西日本新聞社へ入社、現在、北九州支社長の要職にある。出身の武雄市と言えば、一千二百年以上の歴史を誇る温泉の町で、市のシンボルである有名な温泉楼門は、東京駅を設計した辰野金吾博士によって設計され大正四年に完成した。釘を一本も使っていないことでも知られる芸術的作品である。

  その温泉の町出身の彼との出会いは、長崎オランダ村からの依頼でオランダへの取材に行ったとき知り合った。長かった昭和も終わる頃だった。

  フランスの映画俳優で「勝手にしやがれ」のジャン・ポール・ベルモンドに似た顔立ち、うちに秘めたファイトとユーモアのある会話。私の好きなタイプの青年だった。

  彼との関係を親密化させたもう一つの要因は、彼が過ごした大学時代の学生寮「松濤学舎」にあった。

  東京渋谷の高級住宅地、松濤町にあったその佐賀県人会の寮は、成績優秀な学徒しか入寮できず、私の佐賀時代の友何人かがその寮の住人でいた。東京大学に入った小柳君、平山君、慶応の前座君など、今でも付き合っている古き時代の友達だ。その同じ寮の一年後輩に野中君がいたのである。だが当時、私は彼の存在を知らなかった。

  そんな因縁もあって、日本へ戻ってからも、彼とはちょくちょく会っていた。そのころの話である。

  国鉄の民営化が新駅の増設や駅名変更を容易にし、改革が進んでいた頃のこと。

  「おい中野君!知ってるか?」

  「何ばですか」

  「国鉄からJRに変わって、武雄駅の名前が変わったやろ」

  「はい、武雄温泉駅に変わりました」

  「そのあと大問題が持ち上がったとぜ」

  「なんごとが起こったですか?」

  「駅名の変更に伴って、武雄高校の校名ば『武雄温泉高校』に変えようちゅう話がおこっとてぜー」

  「ええっー。嘘でしょう。そんな馬鹿な…冗談じゃなかですよ。おかしかですよ。嘘でっしょ?」

  私の冗談を彼は真剣に受け止めてしまった。彼はまじめな男なのだ。

  「…温泉高校って、どぎゃん考えてもおかしか。嘘でしょ」再度のだめ押しに私は思わず俯いてしまった。「すまん!嘘です…」

  それを聞いて、大蔵君は言った。

  「ようそげな馬鹿なことば考えよりますね。先輩はよっぽど暇じゃなかですか…情けなかですよ」

第8話 恩師

  小学校の一年生の二学期に、突然担任の藤家先生が交代した。藤家先生が出産のために退職されたので、満州から引き上げてこられた女先生が急遽、私達の担任となったのだ。古賀妙子先生との出会いであった。小学校五年生の時の担任は池田岐彦先生。いずれも佐賀市立赤松小学校でのことだ。

  古賀先生からは「優しさ」と「家族の大切さ」を、池田先生からは「正義」や「健康」を、そして、何よりも作文の楽しさを教えてもらいました。

  昨年期せずして二人の先生とのクラス会が開かれて、それぞれの会に出席したが、池田先生のクラス会の席上、先生が私たちに茶色の封筒を配ってくれた。なんとその封筒の中には僕らが四十五年前に書いた先生へのメッセージが入っていた。

  「棺おけに持っていくつもりだったけど・・・」と言って、一人一人に返してくれたセピア色の用紙には、惑う事のない六年生の自分の字で、先生への希望、大人になった自分の姿が書かれていた。

  私は憧れの池田先生が「いつまでも今のままでいて欲しい」と書き、自分は「プロ野球の選手となって、先生の前に現れる」から待っていてくださいと記していた。多くの同窓生がその作文のことを忘れていたが、私は書いた日の事をなぜかはっきり覚えていた。

  先生から伝わってくるただならぬ緊張感だったのかもしれない。今になってはその理由は忘却してしまった。

  しかし、この色褪せた用紙が費やした時間とその当時の先生の意図を考えるとき、太平洋戦争が終わってわずか十年という、荒廃し貧困の時代に、結婚したばかりの理想に燃えた若き青年教師が、教え子のメッセージを棺おけに入れて天国まで一緒に持参しようと思ったそのことが、なんと素晴らしい事であったのか。と思わざるを得ない。

  そして、その事ひとつだけで、池田先生は「生涯一教師」であって、それ以外の何物でもない、私にとっていかに大事な人であったかがわかる。私はまさにそんな先生方と過ごせた幸福を、この歳になってしみじみと感じるのである。

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  このシリーズは1999年から2003年頃に書かれたものです。

第7話 「きけわだつみのこえ」

  明日は自由主義者が一人この世から去っていきます。彼の後ろ姿は寂しいですが、心中満足でいっぱいです。」

  所感と題する遺書を残して、上原良司は昭和二十年五月十一日、沖縄嘉手納湾米国機動部隊に突入戦死。二十二歳。陸軍大尉。

「  私は明確に言えば、自由主義にあこがれていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。これは馬鹿なことに見えるかもしれません。それは現在、日本が全体主義的な気分に包まれているからです。しかし、真に大きな目を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的になる主義だと思います。」

  上原良司、大正十一年九月二十七日長野県穂高町生れ。昭和十六年慶応大学経済学部予科入学。昭和十八年十二月一日入営。

  「戦争において勝敗をえんとすれば、その国の主義を見れば事前において判明すると思います。人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦は、火を見るより明らかであると思います。」

  表題の本が光文社から発刊されたのが、昭和三十四年の事である。私がこの本を読んだのは昭和三十年代後半の東京での学生時代であった。その後人に勧めたりして、ボロボロになったので、会社に入って二冊目を購入したのが、いま手元にある本である。昭和四十二年の発行で四十八版となっている。

  人生で影響を受けた本は何か?の問いに、私は躊躇なくこの本を上げる。まさにこの本が心の拠り所として私のその後の生き方を決定したと言って過言ではない。そして、上原良司の凄さはこの本の巻末に書いてある通り、特に軍部は昭和八・九年頃から自由主義者への弾圧を始め、昭和十一年の寺内陸相の声明で「自由主義排撃」を「庶政一新」のための、最大に眼目としてきたのである。太平洋戦争開戦後になれば、自由主義は「敵米英」と同義語のように使われ、自由主義者を表明することは、みずから「国賊」「非国民」であることを宣言するに等しかった。

  まして軍隊内で「こんな手紙を書いたのが二年兵にでも見つかればおそらく殺されるでしょう」といった状況の中で書かれた手記だったことである。

  「私の理想は空しく敗れました。人間にとって一国の興亡は実に重大なことではありますが、宇宙全体から考えた時はじつに些細なことです。」

  二十歳前後の若者たちが、人生や国家のことを自分の「死」と同じレベルで真剣に考えて生きていた。神風特別攻撃隊とは自分自身が「兵器」であり、知覧を飛び立つ日が自分の「死」の日であった。国は政治屋は軍部は「御国のために死ね」と言うが、あなたは「国」の為に死ぬことができますか。若者よ!君の無責任、無関心、無気力が無知、無能となってしまい、やがて、再び君たちに「死」が要求される時代が来ないとは限らない。若者よ君たちの祖国、この日本の行く末をしっかりと見つめてほしい。

第6話 ラーメン屋 一休軒

  佐賀市の中心地に近い松原町に松原神社がある。そこには竜造寺隆信公と鍋島直茂公の二柱の御霊が祭られている。私たちはその神社の祭日を「日峰さんのお祭り」と呼んでいた。春と秋の二回のお祭りは、子供のころの最大の楽しみであった。日峰さんとは藩祖直茂の法号を「日峰」と称したところから、今でも親しみを込めてこう呼んでいる。

  その日峰さんの大鳥居に向かって左手南側の川沿いに、一休軒という名のラーメン店がある。私が小学校三年生の頃には既にお店があったので、かれこれ五十年近い歴史を誇る老舗である。

  ここのラーメンはうまさに懸けては日本一と言いたいのだが、子供の私たちにとっては値段が少々高かった。他のラーメン屋が30円の頃、50円はした。そこで一休軒のラーメンは高嶺の花というか、憧れの商品になった。このラーメンを食べる事がどんなに嬉しかったかは佐賀に住み、ラーメンを食べたものでなければ理解できないであろう。

  私たちはカウンターの中で親父さんと弟子の作るラーメンの味を比較して味わったものである。親父さんの作るラーメンが一段と美味かったのであった。店に入って調理場に親父さんがいなかったときの悲しみは大きかった。なにせめったに食べる機会がない代物だったのだから美味しい方が良いに決まっている。
  そんな思い出のラーメン店が、数年前に佐賀市の北、高木瀬に一休軒支店をつくった。次男坊が大手の保険会社を辞めて独立したのだ。味は本店譲り、いや本店を凌ぐ美味さである。そのすごい味を子供の頃ともに味わった弟と一緒に食べたい、と思った。

  「アメリカ旅行のお土産にできないだろうか?」との問いに、かの支店の若大将はまじめに取り組んでくれたのである。結論を言うと「できた」。弟と一緒に十五年ぶりにアメリカで食べた一休軒の味に感激したのは言うまでもない。豚骨のだしスープ、焼き豚、生麺、焼き海苔すべて店で使っている食材をそのまま冷やして持ち込んだのであった。

  話はここから始まる。

  この若大将はこれをビジネスとして転用できないかと考えた。私の弟の感激をみんなに味わってもらいたいと思ったのである。思ってからが大変だったという。機材の調達から、調理法、はがきやPR用のチラシの印刷、宅急便との交渉、保健所の認可等々。ある意味ではひとつの事業の立ち上げと同じ手間であった。そして「一休軒のラーメン クール宅急便」が完成した。そしてこれが大当たり!配送は閉店後に行う手作業なので、一日あたりの個数も限られてくる。大量の注文に応じきれないのだが、結果としては若大将の新規ビジネスは大成功であった。手間隙かけた手作り商品の勝利である。

  世間は不況の声で満ちているが、売り上げを伸ばす為に「どうしたら買ってもらえるか」を考えなければならぬ時代だ。それを調査し、手を打つことが必要である。若大将はそれをやった。一生懸命働いて稼ぐ当たり前のことをしないで、不況の所為にしてはいけない。

                       初筆 2001年 春

第5話 ブルーベリー

  ブルーベリーと言えば紫色の小粒の木の実のことであろう。近頃は眼精疲労などの目に良いということで、健康食品としても人気が高い。青いベリー(漿果)ストロベリーのベリーである。
  以上のことを記憶していただき本題に入ろう。

  私が北九州支社から百道浜の本社に転勤になったとき、さる令夫人から餞別にネクタイを頂いた。そのネクタイを初めて締めて、会社へいく朝のことである。ワイシャツのそばに置いてあるそのネクタイを手に取った愚妻(まさにこう呼ぶにふさわしい)がこう言った。

  「いいネクタイですね」と裏返して高級ネクタイのメーカーを確認する。私の場合ほとんどが「ロンシャン、グッチ、ダンヒル」などのブランド品である(?)

  とくに「グッチ」はそのネーミングにおいて親しみを覚えている。GUCCIの前にEをつけてEGUCCIつまりエグチになるなどとつまらぬことで喜んだりしているのだ。

  話がそれた。そのメーカーの英語を読み取った彼女がいった言葉。おお!ここに文章にするにも恥ずかしいことだが…。

  「まあ可愛いネーミングだこと。ブルーベリーですって」

  広い世界だ、どこかに「ブルーベリー」なるネクタイのメーカーがあっておかしくはない。しかし違うのだ。このネクタイは断じてブルーベリーなる乙女チックなハンカチメーカーの製品とは違うのだ。

  賢明なる紳士淑女諸君に置かれてはここでフムフムと、この章の結末を予見されたであろう。

  まさにご賢察の通り。この高級ネクタイは、かの大英帝国第一次世界大戦においてその製品の優秀さを世界に広めたトレンチコートのメーカー「バーバリー」社の製品であるぞ。それをだ、ブルーベリーなるイチゴの親戚みたいな名前と間違えてしまうとは…。
  怒り心頭に発して、ブルーベリーなる英語を辞書で引いてみたら「BLUEBERRY」とあるではないか。
  バーバリーは「BURBERRY」と書く。
  「BLUEBERRY」とは違うかもしれないが、似ている。確かに似ているが、細かく観察すれば少しだが違っている。スペルは似ているが、ではあるが…しかし許せるものではない。間違いは間違いである。

  愚妻はいう「近頃小さい字が読みづらくてねー」

  ならばブルーベリーのジュースでも飲ませて眼精疲労を回復させなければなるまい。世話の焼けるやつだ。

                         初筆 2001年 夏

第4話 サミエル・ウルマン(Samuel Ullmann)

  サミエル・ウルマンの詩「青春」をご存じの方は多いと思う。

  「青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた想像力、逞しき意志、燃える情熱、怯懦を却ける猛勇心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ」に始まる日本人の人口に膾炙した詩である。この詩を有名にした人物は「ダグラス・マッカーサー元帥」であり「松下電器創業者の松下幸之助氏」だろう。その両者の「詩」との出会いについては省かせていただく。

  サミエル・ウルマンの原文が優れたものであったことが、それぞれの人々の心を捉えたのだと思うが、私はこの詩の和訳がすばらしいと思う。漢詩調の格調高い詩文にしたのがよかった(松永 安左ェ門の訳と伝えられる)。

  この詩に感動した人の多くは「老人」であり、おそらく「現役」の人間であった。どのような職業にいようとも、「現役の老人」にとって「迫りくる老い」と「引退」の言葉ほど恐ろしいものはないからである。特に立場がトップにあればあるほど、その恐怖心は大きいようだ。この詩に出会った「老人」達は、小躍りして喜んだ。まさに、わが意を得たりの心境であったろう。そして、この詩は次のように詠い続ける。

  「年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに始めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ・・・」この後を一部英文で読んでみよう。

  you are young as your faith, as old as doubt; 「人は信念と共に若く 疑惑と共に老いる」

  as young as your self-confidence, as old as your fear; 「人は自信と共に若く 恐怖と共に老いる」

  as young as your hope, as old as your despair. 「希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる」

  「大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を受ける限り人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥まで蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる」

  さて問題はこれからである。この詩に感動し「俺もまだまだ現役でやれるぞ」と六十歳過ぎた老人が言わないで欲しい。この詩が詠う「老人賛歌」は会社や組織人としての役割を期待していないのである。この詩から読み取らなければならないのは、詩の冒頭にある「優れた想像力、逞しき意志、燃える情熱、猛勇心、などがなければ十代二十代の若者であっても老人と同じであると解釈すればどうなるか。ウルマンは「老い」は理想や情熱を失うときにやってくる。信念や自信、希望がある限り「老い」たとは言えない。と言う。理想や情熱や信念、自信、希望などは六十歳過ぎても持つことはできるが「優れた想像力や逞しき意志、燃える情熱、猛勇心」などが持てるはずがない。老人は「青春」と言う詩を心の底に燃やし豊かな老後を過ごせばいい。この詩の冒頭部分を日本の若者たちに捧げながらなるべく早く、彼らに道を譲ろうではないか。老人が若者に期待できない世界ほど悲しいものはない。貴方たちは充分に戦ったのだから。

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