第3話 佐賀人気質(かたぎ)
佐賀の人間の気質を語るとき「佐賀人の歩いた後は草も生えん」や葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」といった言葉から佐賀気質を想像する人も多いと思う。江戸時代は「剛毅木訥」(ごうきぼくとつ)も鍋島武士の世界では融通の利かない、田舎侍の姿として通用していたらしい。
そこで今日は現代における佐賀人気質とはどのようなものかについて考えてみよう。
佐賀在住の神代薬局の社長が佐賀のタウン誌月刊ぷらざ平成十四年十月号に書いていた文章から引用しよう。佐賀人気質とは「陽気で坦々として而して己を売らず」と言うもので、この中で重要なポイントは「己を売らず」にあると書いている。
確かに、私のまわりに「己を売らず」凛として潔く人生を処した友人がなんと多いことか。私たち佐賀人は酒を酌みながら「己を売らず」と吟じたわけではない。そうあるべしと声高らかに咆えたわけでもない。還暦を前にした男が組織との決別の選択において、権力に媚びることなく、己を売ることもなく、凛として潔く身を処した事を身震いするような感動をもって共感するのである。
私自身が佐賀人気質の「陽気で坦々として」いたかどうかは、諸兄の判断を仰ぐとして「己を売らず」は守ったつもりである。このことだけは私にとって、譲ることのできない人生訓のひとつであった。
会社に勤務していた時「ごますり」を蛇蝎(だかつ)のごとく嫌ったのも「己を売らない」佐賀人気質がそうさせたのであろう。
そもそも出処進退における「退」は自己判断に任せるのが筋であるが「進」の部分は「己からはたらきかけ」て手に入れるというものではない。
三百年以上の昔に佐賀藩士の生き様を記した「葉隠聞書」の葉隠四誓願は先にも述べたと思うが、あらためて記してみよう。
一、武士道において遅れとり申すまじき事
二、主君の御用に立つべき事
三、親に孝行仕まつる事
四、大慈悲を起こし人の為になるべき事
この文は、「武士道や主君」の部分を「会社」や自己の所属する「組織」に置きかえれば、封建時代の遺物と葬り、無視すべきものではなく、むしろ現代社会でも十分通じる内容であることが分かる。親に孝行は当たり前。自分の為でなく人の為にならねばならぬ、それは大きないつくしみ(慈愛)に支えられたものでなくてはならないと言う。
私たち佐賀人は小さい頃からこの教えを叩き込まれてきた。この言葉を今日まで背負って生きてきたことは、それを背景に持てなかった人達との間に「気質」としての差が出ることは致し方ない事なのだろうか。しかし私自身「己の信条に従って嘘偽りのない自分であり続けること、痛快で素敵な馬鹿な佐賀人気質」は生涯変わりそうにありません。
初筆 2002年 秋
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第1話 「サヨナラ」ダケガ人生ダ
干武陵の漢詩「勧酒」「花発(ひら)いて風雨多し 人生 別離足る」を井伏鱒二は「ハナニアラシノタトエモアルゾ「サヨナラ」ダケガ人生ダ」と訳し名訳と称えられた。
次の漢詩は杜秋娘(としゅうじょう)の作品と伝えられている。
「金縷(きんる)の衣(い)」
君に勧む惜しむ莫れ金縷の衣を 君に勧む惜しむべし少年の時を
花開きて折るに堪えなば直ちに折るべし 花無きを待ちて空しく枝を折る莫れ
訳すれば「金縷の衣装などは大事なものではありません。二度とない若い時こそ大事にすべきです。花が咲いて手折ってもよい時期になったら、ためらわず手折るべきです。ためらって、花が散ってから、枝だけを折るようなつまらぬことをしてはいけません」となる。
「ただ若き日を惜しめ」
綾にしき何をか惜しむ 惜しめただ君若き日を
いざや折れ花よかりせば ためらはば折りて花なし
杜秋娘は李贒(りき)の妾となり、李贒が八○七年に叛乱のかどで処刑された後(その頃彼女は十七・八歳)召されて宮中に入り憲宗帝の寵愛を受け、帝の死後後を継いだ穆宗(ぼくそう)は彼女を皇子湊(そう)の乳母とした。 その後様々な経緯を経て、彼女が四十歳の頃暇をだされ故郷の金陵(江蘇省南京市)に帰った。この詩は李贒の妾の時の詩と伝えられるが、金陵に帰り過ぎし日を惜しんで詠んだもの、と解したほうが趣があるような気がする。
さて次の漢詩ほど人口に膾炙している句はないだろう。
「春暁」 孟浩然
春眠不覺暁 處處聞啼鳥 夜來風雨聲 花落知多少
(春眠暁を覚えず 処々啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落ること多少なるを知る)
この名詩に、わが日本の土岐善麿と井伏鱒二が挑戦して、次なる漢訳を完成した。
土岐善麿 井伏鱒二
春あけぼののうす眠り ハルニネザメノウツツデ聞ケバ
枕にかよふ鳥のこゑ トリノナクネデ目ガサメマシタ
風まじりなる夜べの雨 ヨルノアラシノ雨マジリ
花散りけんか庭もせに(*) 散ッタ木ノ花イカホドバカリ
漢詩とはいえ訳者によってまた時代によってそれぞれに趣のある日本の詩になっているようだ。明治時代の外国文学を受け入れようとする潮流が、海潮音の上田敏がヴェルレーヌの「落葉」を和訳して、原詩を超えた名訳と言わしめたのもまた故なるかなと言うところか。
(*)庭もせに=庭もせまくなるほどに、つまり庭一杯にの意
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第2話 小三治師匠
平成十四年九月十九日は柳家小三治師匠の福岡における「独演会」が五十回目の記念の会となった。初演から実に二十三年の歳月が流れたのである。時に小三治師匠、弱冠四十歳の若さであった。この間テレビ西日本はずっと主催者であり続けた。その縁で話を続ける。
師匠はこの五十という数字をことのほか大切にされていて、前回の独演会の際にもその息の長さを淡々と語っておられた。淡々と意気込むでもなく、お客様が少なくなればいつでも辞めていいと思ってスタートした「小三治独演会」。この日の演目は「粗忽の釘」これは昭和五十四年九月の第一回の演目の再演でもあった。会場内には一回から欠かさず参加されている熱心なファンもいてリクエストとして「百年目」を希望されたお客様に、円生師匠に教えを請うたとき、自分には「山崎屋」の方があっているということで、教えてもらえなかったことなど面白く説明したあと、では第一回目のときの・・・で始まったのが「粗忽の釘」であった。
落語本題に入る前のゴタク(本人談)の「まくら」にも師匠のアイディアがこぼれるようにちりばめられており、時に詩や本の朗読、歌あり、旅の話あり、あるときは「まくら」だけでの型破りの落語の会である。この「まくら」だけを取り出して出版したのが「ま・く・ら」(講談社文庫)である。つまり師匠は「ゴタク」だけでも稼ぐ事ができる、落語界でも珍しい人でもある。
昭和十四年十二月十七日生まれ(東京都出身)「郡山剛蔵(たけぞう)」という古武士のような本名を持つ。余計なことだが奥さん(本人は片ワレと呼ぶ)の名は「和世」だそうである。
小三治師匠の言葉を借りれば、趣味は落語というが、彼の趣味はあまり多すぎてここに書ききれないが「塩」と「蜂蜜」の事なら人後に落ちない強烈な思い入れがある。特に塩は今の塩ブームよりだいぶ以前に今日を予知し、史上最高の塩はヴェトナムにありとの信念を持って事に当たっている。事に当たるというのは、「独演会」のまくらで叫んでいるということだ。そして師匠は次に「蜂蜜」の時代の当来を予言して憚らない。
さて、当日五十回目の「小三治独演会」に足を運ばれたお客さんは度肝を抜かれた。会場の入り口には二百五十キロの「ヴェトナムの塩」が入場者に配るように用意されていたのである。
ここに小三治師匠の真骨頂がある。どの世界に落語家がお客さんにお土産を持たせて帰ってもらうなんて事があったろうか。楽屋に花束や寿司の差し入れをするのは決まってファンと称するお客さんだ。ところがこの会では、主演たる落語家の小三治師匠がお客にお土産を配ったのである。自然体とか縁とかを殊のほか大事にする師匠の気持ちが、自腹を切ってのお客さんサービスになったのだと思う。そしてこの師匠の生き方がある限り「小三治独演会」は永遠に不滅でありましょう。私はそう信じて、師匠にお礼と感謝の気持ちをつたない文にした次第である。
* 2008年12月16日の公演はちょうど60回目に当たる。
初筆 2002年 秋
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