第8話 恩師

  小学校の一年生の二学期に、突然担任の藤家先生が交代した。藤家先生が出産のために退職されたので、満州から引き上げてこられた女先生が急遽、私達の担任となったのだ。古賀妙子先生との出会いであった。小学校五年生の時の担任は池田岐彦先生。いずれも佐賀市立赤松小学校でのことだ。

  古賀先生からは「優しさ」と「家族の大切さ」を、池田先生からは「正義」や「健康」を、そして、何よりも作文の楽しさを教えてもらいました。

  昨年期せずして二人の先生とのクラス会が開かれて、それぞれの会に出席したが、池田先生のクラス会の席上、先生が私たちに茶色の封筒を配ってくれた。なんとその封筒の中には僕らが四十五年前に書いた先生へのメッセージが入っていた。

  「棺おけに持っていくつもりだったけど・・・」と言って、一人一人に返してくれたセピア色の用紙には、惑う事のない六年生の自分の字で、先生への希望、大人になった自分の姿が書かれていた。

  私は憧れの池田先生が「いつまでも今のままでいて欲しい」と書き、自分は「プロ野球の選手となって、先生の前に現れる」から待っていてくださいと記していた。多くの同窓生がその作文のことを忘れていたが、私は書いた日の事をなぜかはっきり覚えていた。

  先生から伝わってくるただならぬ緊張感だったのかもしれない。今になってはその理由は忘却してしまった。

  しかし、この色褪せた用紙が費やした時間とその当時の先生の意図を考えるとき、太平洋戦争が終わってわずか十年という、荒廃し貧困の時代に、結婚したばかりの理想に燃えた若き青年教師が、教え子のメッセージを棺おけに入れて天国まで一緒に持参しようと思ったそのことが、なんと素晴らしい事であったのか。と思わざるを得ない。

  そして、その事ひとつだけで、池田先生は「生涯一教師」であって、それ以外の何物でもない、私にとっていかに大事な人であったかがわかる。私はまさにそんな先生方と過ごせた幸福を、この歳になってしみじみと感じるのである。

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  このシリーズは1999年から2003年頃に書かれたものです。